●相川さんを敗訴させた不当判決 | ・・・・・・・鈴木 健 |
●相川さん陳述書 | ・・・・・・・ |
●森川さん人事委員会審理状況報告 | ・・・・・・・鈴木 健 |
●森川岳幸君の尋問を傍聴して | ・・・・・・・原田絵子 |
●例会開催のお知らせ | ・・・・・・・事務局 |
●<投稿>峠を越えて | ・・・・・・・瀬戸雅巳 |
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(鈴木 健) 神奈川県警の現役巡査部長相川忠夫さんが、平成23年3月24日、神奈川県勤務成績不良 職員指導・教養実施要項に基づいて勤務成績不良職員と指定されたが、地方公務員法では、不 利益処分がされ、処分事由説明書の交付を請求された場合、15日以内に文書で交付しなけれ ばならないことになっているところ(49条1〜3項)、当該巡査部長が交付を申請したのに 対し、県警が交付を拒絶したため、県警を相手取って、違法確認と慰謝料請求を求める訴訟を 横浜地裁本庁に提起した事件の判決が、平成24年3月29日午後1時30分、横浜地方裁判 所で言い渡された。 結論は、違法確認については却下、慰謝料請求については棄却というものだった。 「却下」と「棄却」は、原告の請求を退ける意味では同じであるが、「棄却」が、中身の判 断として原告の請求を退ける判断であるのに対し、「却下」は、中身の判断に立ち入るまでも なく請求を退ける場合に使われる用語である。 それでは、横浜地方裁判所第7民事部が、どのような理由で相川さんの請求を退けたのかに ついて、以下に解説する。
控訴審での審理の展開についても、今後の見張番だよりで適宜ご報告していく予定である。
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鈴木 健 警察見張番で支援している、神奈川県警の森川岳幸警察官が分限免職の処分を受けたのを不服として 神奈川県人事委員会に対し免職処分取消の審査請求をしている事件の関係で、平成23年11月29日 及び平成24年1月31日の2回に渡り、証人尋問が行われた。 最初の期日には、県警側の証人3名の尋問が行われた。1人は、当時相模原南警察署において森川さ んの直属の上司だった乙坂課長、1人は、不良警察官に認定された森川さんの人事管理担当者に任命さ れた佐藤課長、1人は、森川さんの分限手続に中心的に関わった川瀬課長代理。 第2回の期日には、森川さんが不良警察官に認定された後、直接の指導係として配置された西班長と、 県警内部の問題体質を明らかにすべく、申立人側の証人として相川忠夫さんが出廷し、さらに、森川さ ん本人の本人尋問が行われた。 尋問の結果浮き彫りになったのは、現場である相模原南警察署と、県警本部警務部(一般の会社でい うところの人事部)との温度差だ。 すなわち、森川さんの直属の上司であった乙坂課長と、不良警察官に認定された後直接の指導係とし て配置された西班長は、森川さんにとっても尊敬すべき上司であった。それゆえか、尋問に対する回答 の姿勢も、人柄の良さが滲み出るような態度であったが、そこはやはり組織として、森川さんが至らな い警察官だということを強調しなければならない立場だったからか、(既に証拠として提出されている 書面の内容以上に)森川さんの勤務実績を悪く言わざるを得ず、良心の呵責に苛まれているような印象 が際立った。 これに対し、森川さんの人事管理担当者だった佐藤課長と、森川さんの分限手続に中心的に関わった 川瀬課長代理の尋問結果は、官僚答弁のような内容に終始した。 佐藤課長は、そもそも人事管理担当者に選任された後の数ヶ月、警察大学校に出向しており、神奈川 県警として、真に森川さんに対し指導・教養するつもりがあるのか全く疑わしいような人事であった。 実際、指導・教養計画書も規定どおり作成されていないし、その後作成された指導・教養事項報告書も、 佐藤課長が先に指導・教養状況欄を先に記載し、それを森川さんに渡して、指導・教養事項欄を埋めさ せるような、いい加減なことをしていた人物である。 また、川瀬課長代理は、森川さんが不良警察官に指定されたころから警務部として携わっており、分 限審査委員会に対し、公平な目で申立書を上げられるような人物ではなかった。分限審査の口頭審理に おいて、森川さんが、分限理由として挙げられた10数個の事実に関し、かかわった警察官の証人尋問 を請求したが、取り上げられたのは相川巡査部長だけであった。そして尋問の結果、かかわった警察官 に対しては自分が直接確認したので問題ないと回答する始末で、これでは、言い分が食い違うことにつ いては森川さんの言い分よりもかかわった警察官の言い分の方を信用し、口頭審理の意義を没却する出 来レースであることを自白したようなものである。 森川さんの分限理由のうち、時系列的に一番最後に挙げられているのが国外無断海外旅行なのである が、その事実が発覚した後も、相模原南警察署においては指導・教養計画書が作成されていたし、国外 無断海外旅行したことに対する訓戒書も、「同様のことが繰り返された場合には分限処分がなされる可 能性があります」としか記載されていなかったのである。 それなのに、上記のようなおざなりの手続の結果森川さんが分限免職処分を受けたのは、国外無断海 外旅行したことが県警本部のお偉方の誰かの逆鱗に触れた結果であることは疑いない。 弁護団としては、これらの事実を詳細に主張した最終準備書面を提出し、4月16日の口頭審理を経 て、手続は終了した。 裁判所における判決と違い、決定書の交付時期は事前に明らかにされない。清水勉先生が他の県の人 事委員会審理を担当されたご経験では半年から1年くらいかかったということであった。いつ結論が出 るかは分からないとしか言いようがないが、結果が出次第、この見張番だよりでご報告させていただく 予定である。
以上 |
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(原田 絵子) 平成24年1月31日、約2年間審査請求を行って来て、請求人森川君の尋問と言う大詰めの日が いよいよ来たと言う感じでした。 会場の中はもっとぴりぴりした感じかと思っていましたが、何時 もと変わらず、森川君も落ち着いた感じでした。 午前中は警察側の西班長の尋問に続き、森川君側の相川巡査部長の尋問が行われました。西班長の 事は森川君から少し聞いていたのですが、実際拝見して、とても落ち着いた方だと印象を持ちました。 尋問中も終始落ち着いて発言をしていました。 次に森川君側の相川巡査部長の尋問が始まりました。森川君の側近にいた事もあってか、とても分 かりやすく聞く事が出来ました。 昼の休憩を挟み、森川君の尋問が始まりました。 弁護士の質問を冷静かつ大きな声でしっかりと 答えていて、好印象を受けました。 話がそれますが、森川君が尋問を受けている最中、審査長は居眠りをしていました。こんな事があ って良いのかと考えさせられました。 そんなこんなで森川君の長時間の尋問は終わりました。森川君の尋問の最中、西班長が傍聴側から ずっと観ていました。 どんな気持ちでいたのでしょうか。
(以上) |
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相川さんの裁判の結果については別稿で述べましたが、相川さんは、今年の3月31日、 無事に60歳の定年を迎えられ、神奈川県警を退職されました。 そこで警察見張番としては、相川さん長年お疲れさまでしたという労いと、併せて、現職 警察官であるうちには言えなかった、在職時の色々な苦労話、裏話を気軽にしていただく例 会を開催したいと思います。面白いお話が聞けることは間違いありませんので、皆さま、奮 ってご参加下さい。
(以上) |
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(瀬戸 雅巳) 私は、1988年9月、山梨県の過疎の山里へ一人旅をした。 朝、山あいの里を車で通ると、橋の袂で一人、曲がり坂で一人、大きな木の下で一人と、土建会社の マイクロバスに乗り込む4・50代の女性の姿を見た。生活のために土方仕事に行くのである。 働く所が少ないのだ。「大変だな−、生きるために、みんな一生懸命働いている」少し進むと、岩舟 地蔵尊の看板が目に止まった。私は、仏教や仏像に関心があるので車を止めた。 地蔵堂入り口の横に、二つ折りにしたムシロを敷き、その上に正座をし、刈り取ったゴマの草を大・ 中・小と整理している60代の農婦がいた。紺のモンペに頭に手拭いをかぶり、せっせと働いていた。
「こんにちは」私はおばさんに声を掛けた。 ゆるい下り坂を30メートルほど行くと、谷間の川の岸壁の上に4畳半ほどの木造作りの地蔵堂があり、 中に石のお地蔵さんが祀られてあった。案内板には、江戸後期に栃木県岩舟地蔵尊の念仏踊りの一団が、 信州から甲斐の国に入り、当村で念仏踊りをしたのが縁で、分霊し、創建したと記されてあった。 「願い事なら岩舟地蔵様よ。昔・昔から孫・子の代まで言い伝えられてきた」とあった。地蔵堂を後に して、おばさんの所にもどった。 初めて見る私に、おばさんは「何処から来ましたか」と訊ねた。私は、「昔話しにある足柄山の金太郎 が居た所です」と答えた。おばさんは、「ここは過疎の土地で、若い人達は働く所が少ないので東京や 横浜や静岡へ働きに出ているよ」「本当は、子供や孫と一緒に暮らしたいが、そうもいかないんだ」と 寂しそうに言った。 「私も若い頃は、土方仕事にいっていたけど、体をすっかり悪くしてやめたよ。今は、腰が痛くて」と 言って右手で腰をさすった。また「一ヶ月2、3万円の国民年金では食べていけなくて、明日の事を考 えると心配なんだ」と不安顔で話した。 畑仕事のお茶にと持ってきた缶ジュース一本を私に差し出し「飲みながら話しましょう」と言いきな粉 アメを私の手の平にのせた。おばさんは、初めて会う私に心を開き、いろいろ話した。 「選挙の時にお金を撒いている人も居るよ」とこっそり言った。「おばさん、そういうお金を貰っては いけないよ」「この辺は田舎で周りと同じにしてないと村八分になるよ」「日本にはそう言う気風が多 く残っていますが、悪いものは悪いと言わないと、世の中良くならないでしょう」「そうだよ、あなた の言う通りだ」この頃、山梨県を地盤に選出されている金丸信がゼネコン疑惑で逮捕され、自宅地下室 から、金・銀・財宝や隠しカネが多数出てきた。とニュースになった後だった。
おばさんは「誰を信じていいか分からないよ」と肩を落とした。 「あーそうか、そうか」と おじいさんは言うと「オレはもうダメだ、あっちさ行くだ」「あっちさ行 ったら、もう、帰って来られんでー」「うんだなー」と言うと おじいさんはふらふらしながら、来た 方とは別の方へ歩いて行った。 「おばさん、ごちそう様でした。きっと、家族みんなで暮らせる時が来ますよ」「そうなるといいんで すがね」「ごちそう様でした。おばさん元気で暮らして下さい」そう言って別れた。 9月の初秋の風が時折吹き、木々の青い葉がさらさらと揺れ、空はどこまでも青く、山々は雄大に聳え ていた。 家に帰って考えた。− 縁あって結ばれ、山里の土地で働き、生きて来たおばさんに、励ましの歌を作 り贈りたいと思い詞を書き歌を作った。(東京の音楽家に編曲とプロ歌手に歌って頂いたテープができた)
6ヶ月後、歌を持っておばさんの暮らす山里へ車で向かった。 「こんにちは、おばさん」頭に被せた手拭いの間から私を見上げた。「ああ、いつかの人だね」 6ヶ月前に会った私を覚えていてくれた。 私は、以前、お茶をごちそうになったお礼を言い、訳を話した。「おばさんがあの時、地域や暮らしの 事や思いを話してくれたので、いろいろ、よく分かりました。一生懸命働き、正直に生きて来たおばさ んに人生の歌を作り、贈りたいと思い、励ましの心を込めて作りました。 今日3月1日、春の良き日なので、歌を持って来ましたので聴いて下さい」そう言うと、おばさんは、 ビックリした。 畑の中に通る細い道に立ったおばさんに、「これが詞です。読んでみて下さい。」と紙を差し出すと、 声を出し詞を読んだ。 「これは、私の気持ちにピッタリです」と言った。私は、上着のポケットからカセットテープを取り出 した。 白地に赤い線の入ったティッシュペーパーの空箱で作ったカセットテープ入れの箱に水色のリ ボンを付けたテープ入りの箱を差し出すと、おばさんは、表彰状を受け取るように深々と頭を下げ、両 手を前に出し、受け取った。 私は、ウォークマン(テープを聴く機械の名前)にテープをセットした。道端の石の上に腰を降ろした おばさんは、イヤホンを耳に入れ、頭にかぶった手拭いを首に掛けた。「いいですか、始まりますよ」 の声にスイッチが入った。 おばさんは声を出し、テープの歌声と一緒に歌い出した。一番が終わり、二番に入ると、おばさんの目 から涙があふれ頬を伝い紺のモンペに落ち、すっと、吸い込まれていった。おばさんの歌声が、静かな 山の畑の中に流れた。 おばさんは、泣きながら三番まで歌いつづけた。♪野花咲いてる この里で いつかみんなで暮らしたい ♪今日も夢をみた 母さんは歌い終わると「うれしいよ。こんなにしてもらって、これは私の宝だ」と 言い、しくしく泣いた。 「よかった。おばさんに気に入ってもらって、安心しました。」と言った私に、おばさんは、「全国に は、私と同じ境遇の人はいっぱい居るでしょう。先日も、トンネルの向こうに住む80歳の一人暮らし のおばあさんとお茶を飲みながら話しをして、これからの事を考えたら、心配で二人で泣いてしまった んです」と泣きながら言った。 私は「そうですか、東京に住もうとも、田舎に住もうともみんなが安心して暮らせる世の中にしなけれ ばいけませんね」「そうだよ。あなたの言う通りだ」と言うとまた泣いた。 そして「お金がかかったでしょう」と心配した。「お金の話しはぬきですヨ」と私は、すぐに答えた。 「家に寄って、お茶を飲んでいって下さい。」「はい。寄らして下さい。」共に立ち上がり、畑の中の 細い道を歩いて家に向かった。 玄関に入ると昔ながらの8畳間ほどの土間だった。壁には筆で「生涯教育」と書かれた紙が貼られてい た。「おばさん、これは娘さんがしたんですか」「いいや、私がボケちゃあいけないと思って、やった んです」奥の台所で答えた。 二間つづきの部屋の間には、建具の代わりに、厚さ30センチメートルの倉型の扉が付けられていた。 「おばさん、この倉型の扉はなんですか」「この辺は、水が谷の下を流れているので、水が大切なので、 火災の時、家を少しでも守るため、その扉を閉めるんです。天井には厚さ5センチメートルほどの土が ひいてあるんです。」と説明した。集落の神社も蔵造りだった。 奥の台所で、お茶の支度ができたようで「どうぞ、上がって下さい」と言われた。黒くくすんだ仏壇の 前のコタツに座り、お茶を頂き、一時間ほど世間話しをした。 「ごちそうさんでした」と席を立った私に、「なにか持っていってほしいけど、家は貧乏で持っていっ てもらうものが無いので、これを持っていって下さい」 「なにもいりません」と言う私に布でできた手作りの鳥の置物をビニール袋に入れ差し出した。 「私が持っていってしまうと無くなってしまうヨ」と遠慮する私に「持っていってもらいたい」と私の 手に、ビニール袋を握らせた。私は、お礼を言って、頂いた。 玄関の土間に立つと、おばさんは玄関の上がり段に正座をし「ありがとうございました。」と深々と頭 を下げ、礼を言った。 「この近くを通ったら寄らして下さい」「ハイ、何時でも寄って下さい」の言葉に贈られて庭に出た。 庭の隅に飼われている白い数羽の鶏の一羽がコッコッコッと鳴き、羽をバタッバタッとならした。 おばさんと初めて会った地蔵堂の前の高さ2メートルほどの梅の木は、白い花をいっぱい付け、山里に 住む人達に春を告げていた。 おばさんに贈った歌「母さんの道」を車内で聴きながら急な上り坂のつづく本栖道の峠に入った。峠の 空気は冷たく、山に根を下ろした木々に、青葉・若葉は、まだ、無かった。
峠のトンネルを抜けると、正面に春の富士山が見えた。その富士山がキラキラ光る菜の花の色に見えた。
「おお、きれいだ」私は、思わず声をあげた。 (出会いの中の、一場面) 「おばさん、子供さんが小遣くれるでしょ」と聞いたら「いいやダメだよ。かかりのする子供がいて、 むこうも大変なんだ」と寂しい顔で言った、おばさん。
老人会で神奈川のある温泉に行った時、道路にずっとつながっている車を見て、「あんなにいっぱいの
車を見たのは、生まれて初めてだよ」と驚いていた、おばさん。 23年前、おばさんの住む下部町の65歳以上の一人暮らし、二人暮らしの家は町全体の20%だった が、その10年後には50%になった。 見知らぬ土地へ一人旅をして、めぐり合いの縁があり、おばさんと出会って、23年の月日が過ぎた。 おばさんは、今、86歳。杖を頼りにやっと歩くが、すっかり腰が曲がり、長年生きるために働きつづ けてきた苦労が、その姿から偲ばれる。
杖をついて、よろよろ歩いて来たおじいさんも、別の集落に住んでいて、明日の暮らしの事を心配して
一緒に泣いた、友達のおばあさんも、すでに旅立った。この世の無常を深く感じる。
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「峠を越えて」から23年の月日が流れました。 学校を卒業しても働く場所も無い。派遣や請負労働で、働く人達の使い捨て。 経営が成りたたずのシャッター通り。後継者の育たない農業。生活できない年金。政府が作った赤字を 国民に押し付けた消費税。10年以上もつづく、毎年1万人以上の自殺者。 資本金10億円以上の大企業が保有する内部留保が266兆円(2011年度)。前年度比9兆円増。 10年間で90兆円増加した。 民間企業労働者の年間平均賃金は(2000年の461万円から2010年には412万円)へと約5 0万円減少。 阪神・淡路大震災17年後の今も、多くの人達に生活の苦難が続いている。等々。社会の不合理は拡大し、 主権在民の憲法の精神は未だに、実現していない。国民主権をないがしろにしている政治と共に警察法 や社会正義欠落の警察の姿も国民にとて不幸である。 警察見張り番の必要ない、社会にしたいものです。 ******************** ※この見張番だよりでは、皆様からの原稿を募集しております。投稿は、 ken-suzuki@bashamichi-law.jp まで。
(以上) |
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