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警察見張番だより 23号の1
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弁護士 佐久間 哲雄 先の通常国会の冒頭で行われた方針演説の中で、安倍総理大臣は来年の春までに空き交番をゼ にすると表明した。交番は、世界に広く知られ、その数は6000を超え、全国的な規模で空き交番を なくすという安倍総理の表明は高く評価してよいと考える。因みに神奈川県警では、既に全ての交番 に交番相談員の配置を終了している。地方分権のための特別法も既に施行され地方分権化の流れは作られつつある。教育と警察は、 地方自治の二本柱である(行政学における通説)。安倍内閣が、日本の教育の原状を根本的に改革 しようとしているが、おそらくその行き着く先は、教育行政の多くを地方に任せることになると思われる。 地方分権の流れが更に大きくなった時には、警察の在り方も大きな課題として浮上するに違いない。 1947年旧来の国家警察が解体され、自治体警察が誕生した。神奈川県にあっても神奈川県警の 他に横浜市警察が発足し、市民警察がスタートした。ところが1954年警察法が大改正され、残念な ことに自治体警察は大きく後退し現在の警察組織になった。 警察の職務として全国規模で統一的に執行しなければならない職務は当然存在するが、市民社会 の秩序・安全をまもる機能は自治体に任せたほうが有効に機能するものが多い。そのため世界各国 の警察組織をみても自治体警察の二本柱を設けている例が多い。交番および駐在所は、地域に密 着した警察機構であって自治体警察の担う機能を象徴する存在と云える。 ここで、警察の在るべき姿を考えてみる時、英国で数百年経て築き上げられた原則が参考となると思 われるので簡単に紹介する。先ず警察は、市民の使用人として存在する(第1原則)ということである。 日本国憲法で公務員は全体の奉仕者であると規定されているところからも、上記の原則はわが国に おいても当然認められてよい。次に警察官は武器を携帯しないという原則(第2原則)。警察官の職務 は危険を伴う。英国の市民警察で長い試行錯誤・議論の末、武器を携帯しないという原則に到達した 経緯を私たちは考えてみる必要がある。 3番目に警察官は市民とともに居住し市民の一人として生活 するという原則(第3原則)である。警察庁は近年「国民に開かれた警察」を目指すと言っている。私の 家の近くに神奈川県警の警察学校があって、警察官に採用された若い人たちが敷地内の寮に入り 教育・訓練を受けているが、周辺住民との交流は全くない。 1993年横浜の中華街で犯人逮捕にあ たり殉職された警察官がでた。警察学校で神奈川県警察葬が執り行われた。警察葬への参加の招 待は横浜弁護士会にはなかったが、当時会長であった私は、職権を濫用(?)して殉職警察官への 感謝とお悔やみを表すため葬儀に参加させて貰った。葬儀はブラスバンドの荘重な響きの中で行わ れたが、式場を見渡したところ圧倒的に警察官が多く一般市民の参加は少なかった。些細なことで あるが開かれた警察を目指すにあたり、空き交番をなくすことも大切なことであるが、市民とともに警察 が行う行事を増やしてみてはどうかと思う。 英国の市民警察が挙げる原則として更に、警察官は職務行為について自ら責任を負い(第4原則)、 部隊として行動しない(第5原則)というのがある。ロンドン警視庁の警察官が胸に名札をつけている ことは、この現れである。私は弁護士として警察官に接する機会が多いが、私が名刺を出しても警察 官から名刺を出してもらうことは少ない。 かつて警察官も名札を付けたらどうかとの議論がおこったことがあったが実現しなかった。多くの私 企業や役所では職場で名札を付けることは一般化している。改めて警察官が名札を付けて職務執 行することを考えてみたらどうだろうか。国民・市民は間違いなく警察の努力を評価するだろう。 地方分権に基づく市民警察は、時代の流れとしていずれは実現すると考えるが、開かれた警察の 実現は、この時代の流れに沿うものである。「威信の警察」から「国民の信頼の上に立つ」警察へと 変貌するだろう。そのための警察行政情報の公開は、ようやく動き出したばかりであるが、これもい ずれは大きな流れとなるに違いない。 公安委員会が名誉職として引受けた委員によって構成され ている原状から徐々に市民の声を代表する委員によって構成されるようになるだろう。原田さんなど が中心となって立ち上った北海道市民フォーラムの運動方針の一つとして、公安委員会の事務局の 独立を掲げているのは、市民警察の実現のためのワンステップとして素晴らしい着眼だと思う。 長期のスパンで日本の警察の目指すところを思いつくままに書いてみた。日本の警察の在るべき 姿が現実のものになる条件は整いつつあると思われる。それにつけても、大きな変貌には、多くの 人々の苦痛と犠牲が伴う。智恵も必要だし、時には力も必要になるだろう。私たちの運動も、ささや かであるが貢献できたらと思う。 |
―― 控訴理由書のポイント―― |
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弁護士 鈴木 健
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間瀬 辰男 警察に限らず、どこの役所もできることなら何も見せたくない、だから「とりあえず非開示処分」 という「秘密主義」の習性は否定しがたい。とりわけ、警察は別格だという意識が強い。私が、捜 査とは全く関係のない、道路交通法による許認可に関する文書の開示請求をした時、警察に 文書を見せろなどと言ってくる奴は正気か、という顔で応対されたことを思い出す。 ごく最近、「仮装大会」というテレビ番組に自衛隊員のグループが参加して入賞した。その際、司会者の 質問全てに「防衛機密です」の一言のオウム返しで押し通していた。法廷での「捜査秘密です」 のこだまを聞いた気分だった。恐ろしいことである。 この事件で気になるのは、開示を求めているのは「情報」であって、「文書」ではないということ である。「文書」の開示は「情報」の開示の手段であって目的ではない。つまり、本件は捜査報 償費の支出事務に使われた「情報」の開示を求めたのである。 例えば、現金出納簿について 言えば、現金出納簿に記載されている「情報」の開示を求めたのであるから、日付、官職、支 出事由、支出金額、返納金額、差引残高を開示したからといって、捜査に支障が生じるとは考 えられない。それなのに、黒塗りにしたのは違法である。 他の文書にしても、前記の項目であれ ばその部分だけを開示しても捜査に支障が生じるとは考えられない。領収書の支出金額を公 開したからといって捜査に支障があるとは考えられないから、支障のある部分は黒塗りして表題、 日付、金額など支障の無い部分だけでも開示すべきなのに全部を非開示にしたのは違法で ある。領収書の存否を秘匿したかったのであろう。 判決はこの点を見過ごした点において誤りがあると私は考えている。これでは、一条の光も見出 せない暗黒の世界である。情報公開に対する姿勢をまず正させることが第一歩である。 |
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「明るい警察を実現する全国ネットワーク」 今回の訴訟の対象になったのは、平成12年度と15年度の県警本部交通指導課と少年課の捜査 報償費だ。私は、この裁判の口頭弁論を傍聴したこともなく、記録に目を通したこともないので、 この裁判の内容について論評することはできない。 おそらく、神奈川県警は「捜査報償費を受け取った協力者や捜査員の名前、事件名を開示すれ ば、捜査に支障がある」と反論したに違いない。何故なら、これまで多くの情報開示請求の裁判 で警察側が常套としている反論だからだ。 15年度といえば、警察の裏金問題が全国的に大騒ぎになる前の話しだ。この頃は、警察内部で は、堂々?と組織的な裏金つくりが行われていた時期でもある。そのやり方は、全国共通だ。 電話帳などから抜き出した名前を使って架空の協力者をデッチあげ、捜査報償費を受け取った というニセ領収書を現場の捜査員に書かせ、それに見合ったニセ会計書類をつくるのだ。 おそらく、開示請求の対象となった県警交通指導課と少年課でも同じことが行われていたであろ うことは想像に難くない。私の体験からは、そもそも、交通指導課や少年課が捜査報償費を支払 うような協力者が存在するなどということは想像さえできない。この2つの課の仕事の性質上、どん な協力者を必要としていたのかが、俄かには浮かんでは来ないのだ。 警察情報の開示請求に立ちはだかる厚い壁は裁判だけではない。つい先日、札幌の市川守弘 弁護士による「道警本部銃器対策課の捜査費と捜査用報償費関係文書の開示請求」に対する 北海道警察の非開示決定に対して、北海道情報公開審査会が北海道警察の非開示決定を是 認する答申を出した。私と道警OBの斉藤邦雄君の意見陳述は完全に無視された。 平成17年6月、仙台市民オンブズマンが「宮城県警の捜査報償費が裏金に回されている」として 提起していた返還請求訴訟の判決があった。判決は、会計課長の責任は認めず棄却したが「報 償費の支出の相当部分に実態がなかった」と県警の裏金の存在を強く示唆した。 この裁判では、私が北海道警察の裏金システムについて証言し「全国の警察でも同じような裏金 システムが存在すると思われる」と指摘した。判決では私の証言も採用されていた。 警察の裏金システムを体験上熟知している私からすれば当然の判決なのだが、仙台市民オンブ ズマンが、この程度の判決であっても「捜査報償費の不正支出を正面から認めた画期的な判決 で、実質的な勝利だ」と評価したことでも判るとおり、警察の裏金システムのベールは厚い。 警察の裏金問題をめぐる訴訟だけではなく刑事裁判でも、裁判官はどちらかといえば警察側の 主張を採用する傾向が強い。今年8月に出版した拙書「警察vs警察官」(講談社)書くに当たって 、元長崎県警の大宅さんの事件、元高知県警の片岡さんの事件、愛媛県警の仙波さんの息子さ んの事件の裁判記録を読ませてもらったが、いずれの事件でもそうした傾向を感じた。 元高裁の裁判官で香川県の弁護士の生田暉雄氏がある雑誌の対談「日本の裁判はこんなことになってし まった」で、裁判所について「警察・検察といった行政機関の行為を裁判によって追認している」と 述べている。そうした意味では、今回の横浜地裁の判決は、当然と言えば当然の結果ともいえる。 では「警察見張番」の提訴は、無駄だったのだろうか。私は決してそうではないと思う。 市民団体が、警察の監視を続けて訴訟を繰り返し提起することによって、警察は今までのような やり方はできなくなるであろうことは間違いない。では、警察の裏金つくりはなくなったのだろうか。 それは否だ。平成16年以降全国17都道府県警察で裏金疑惑が発覚したことにより、警察側も当 面は用心しているであろう。しかしながら、警察の隠蔽体質が何も変わらず、警察をチエックす べき知事、議会、公安委員会,監査委員などが,形骸化したままでは、裏金つくりはより巧妙に続 けられるであろうことは想像に難くない。 このことは、平成7年に県庁の裏金問題が北海道、宮城 県、秋田県などで発覚し、10年後に長崎県、岐阜県で再び発覚したことでも明らかだ。加えて、 会計書類の保存年限は5年だ。今後の警察の裏金システムの実態解明の阻む壁はより厚く、 より高くなるに違いない。 市民にとって、正義を求める最後の砦であるはずの裁判が、私たちの期待する判断をしないか らといって諦めてはならないと思う。繰り返し警察に対して情報公開を迫り、必要なら訴訟も提起 することが何よりも必要なのだ。 開かれた警察を求める「警察見張番」の役割はこれからも重要である。ひとつの判決に一喜一 憂する必要はない。 |
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