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● 6戦後裁判雑感――
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元高知県警警部 片岡壯起の妻:片岡 昌子
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――特に裁判所の「戦争責任」について―― |
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日本国民救援会会員 石川 利夫 <はしがき>まだ憲法は実現途上だ! 太平洋戦争後に、日本の司法は変わったはずであった。しかし、司法界には「追放令」が無かった。 戦中までの司法は天皇の名で、裁判が行われていた。当時の「大日本帝国憲法」(旧憲法)では、 第57条で「司法権ハ天皇ノ名ニ於イテ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」と規定されており、敗戦後の「日 本国憲法」(新憲法)では、国民主権の下で、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立して其の職 権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(第76条3項)と定めている。 また第99条では「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を 尊重し擁護する義務を負ふ」と定めている。 だが、この第99条による罰則付きの法律がないのをいいことにして、新憲法第9条を巡って、危険な 動きが現在おきている。新憲法が1946年11月3日に公布されて間もなく、占領国米国の政策の右旋 回が起きた。当時「全面講和」か「片面講和」かの深刻な論争が起きた記憶がある。だが、新憲法と 真っ向から矛盾する「安全保障条約」が「平和条約」と同日に結ばれた。1951年9月8日のことで、翌 年4月28日に発効した。この通称「安保条約」が軍事同盟に変えられるというので、全国的な反対運 動が、1960年春にかけて行われたのは、今では歴史となったのか。 この闘いは、安保・松川・三池の三つが結びついて進められたことは忘れられない。私たちが取り組 んでいた松川裁判闘争に関しては、「松川を守る会」、そして作家・廣津和郎先生の「松川裁判」執 筆と作家生命を賭けた運動の数年が忘れられない。その当時の運動の広がりは、今では想像も出 来ないものであった。 当時の「神奈川県 松川闘争史」(1964.11.1発行)の154頁、「松川事件救援 色紙展」の記事を 見ると、1960年6月12〜15日の間に、伊勢佐木町の有隣堂で、県内外の文化人からの出品が6百 点、中国からも掛け軸が寄せられている。6百点を超した出品者の名簿を見ると、広範な人達の善 意が結集されていることが分かる。 例えば、伊東深水(画家)、石塚友二(俳人)、大野林火(俳人)、小津安二郎(映画監督)、鏑木清 方(画家)、小林秀雄(作家・評論家)、清水昆(漫画家)、新藤兼人(映画監督)、石原慎太郎(作 家)、高木東六(音楽家)、長洲一二(教授)、那須良輔(漫画家)、 県外でも石原裕次郎(俳優)、長門裕之(俳優)等々で、その広がりを作り上げた沢山の人が居た わけだ。 そうした広範な盛り上がりがあって初めて松川の勝利があったのだし、他の基本的人権を実現す る運動も実を結んだのである。「この歴史」に私たちは、自信を持っていい。 当時は「天皇主権」の下での「裁判」から、「国民主権の裁判」に変わり、その平和と人権を守る活 動が前進していた時期であった。無実の4人も死刑台から生還した。 現在、環境権とか諸々の権利を書き加える加憲を、改憲の理由に挙げる人も居る。だが、現憲法 に書かれた原則から、環境権初め諸権利が導き出され、獲得出来たのである。 しかし、憲法には書かれていても、戦後の裁判は必ずしも民主的に変わったわけではない。先日 の「横浜事件」第三次再審の横浜地裁では、治安維持法はまだ完全に払拭されていない、と感じ たものである。 「昭和の厳窟王」吉田石松翁への名古屋高裁再審裁判で、小林登一裁判長が判決末尾で述べ た言葉を引いて、竹澤弁護人が最終弁論を行ったが、その意向は全く無視された判決であった。 その引用された言葉を以下に揚げる。 「当裁判所は被告人否被告人というに忍びず吉田翁と呼ぼう。吾々の先輩が翁に対して冒した 過誤を只管陳謝すると共に実に半世紀の久しきに亘り克くあらゆる迫害に堪え自己の無実を叫 び続けてきたその崇高なる態度、その不撓不屈の実に驚嘆すべき類なき精神力、生命力にた いし深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈念する次第である。よって主文の 通り判決する。」
主文は「被告人は無罪」であった。 <私の体験から――国も間違うことがある> 私は、1950年代には、ある裁判を依頼されて傍聴したり、ある事件で証人として出廷したりした。 「下山」「三鷹」「松川」といった事件が引き続いて起きていた時代である。事件に関心を持ち、松川 被告に手紙を書いたり、二階堂武夫さん(故人)から頂いた返事を職場で回覧したりしたこともあった。 丁度「松川事件」が、二審判決後に最高裁にかかっていた頃だった。松川事件対策協議会が設 立されたのは1958年で、私はその少し前に仙台に転勤した。その職場で「松川を守る会」を作っ た。また、その後名古屋に転勤になったが、仙台高裁では、差戻審で全員無罪の判決(門田裁 判長)がくだされ、1963年9月12日には、検察の再上告を棄却し、門田判決が確定した。当時の 感激は今でも忘れられない。また、この経験が後の私の活動指針となった。敗戦と「日本国憲法」 成立にも劣らない体験であった。 それ以来、「国」も間違うことがあると考えられるようになった。即ち、「国」が間違うことはない、とい う戦前からある考え方が問題だ、と思うようになったのである。 私たちは、戦中に「国体の本義」「臣民の道」「青少年学徒に賜りたる勅語」を、「教育勅語」「軍 人勅語」と合わせて教育された年代である。その時代は「高等文官試験」にパスして、高等官 (役人)が育てられていた。その世代である。 安倍総理の祖父・岸 信介は、そのようにして官吏になり、満州国の支配をし、その経験の下で 戦後の安保条約改訂時の総理となった。岸が一旦は、A級戦犯容疑で逮捕されながら、東京 軍事裁判で裁かれずに釈放されたうえ、総理となったのには、どのような経緯があったのだろ うか、今も疑問が残っている。 <裁判官の戦争責任> 私は40年ほど前に、山口で「仁保事件」支援に関わった。一審は、山口の小河兄弟弁護士 が、関わっていたが、二審になり在京・在近畿の弁護士で補強され、弁護団が出来た。団に加 わった青木英五郎弁護士は、八海事件の判決に抗議して、裁判官を辞任し、弁護士になった と聞いていた。 青木弁護士の書いた「裁判官の戦争責任」という著書がある。昭和38年(1963年 )の発行である。戦前の裁判、特に裁判官でさえも被告とされた治安維持法事件の裁判につき、 書いている。その「あとがき」で、「私は、裁判官の掟を破ることにした。裁判の威信とひき替えに、 治安維持法の犠牲者を、血塗られた司法の一頁を、忘却の彼方に埋もれさせることは出来ない」 と、この著書の意図を述べている。 「仁保事件」は、山口市近郊の仁保で1954年に起きたYさん 一家六人が惨殺された事件である。1972年12月14日に、広島高裁差戻審で、犯人とされたAさ んは死刑から無罪となり、確定した。これは、メーデー事件・辰野事件に続く、72年末に引き続く 勝訴であった。「松川」「八海」から「仁保」に続いた運動の勝利であった。当時はしばしば起きた 「違憲判決」も、今日では殆ど見られない。 ◇ 先年、「日独裁判官物語」という記録映画が、全国で鑑賞されたが、その映画を観て私たちが驚 いたのは、ドイツの裁判官の間では、戦争犯罪が問題化して、その頃の記念碑が建てられているこ と、裁判官も民衆と共に地域の中で暮らしていること、裁判所が民衆の出入りし易い場所に建てら れていること等だった。我が国との違いに一驚したことを覚えている。 日本では、民衆と隔絶している。民衆との日常的な接触がない。今度の裁判員制度によって、 裁判所は変わるだろうか?「戦争責任」が不問となった後遺症が不安である。 戦後、「松川裁判」だけではなく、一時は国民的な支持の下で、特に地裁段階で、違憲判決ま で出て話題になった時代があった。例えば、次のような裁判である。
砂川事件 東京地裁 伊達秋雄裁判長 1959・3・30 違憲無罪判決 伊達秋雄、福島重雄両裁判長のように、正面から違憲判決をする裁判官は、段々と姿を消して、 折角の違憲審査権(81条)も、いつの間にか政府側に委譲されたかの感じである。憲法99条の「尊 重・擁護」の義務があっても、本来ならば、三権分立の建前から言っても、立法権に対する司法権 のチェック機能が失われていれば、せっかくの違憲審査権も宝の持ち腐れである。 これが機能す れば、今日のような支配者の無軌道な、一般の民衆道徳にも反したことを平然とやってのけるよう なことは、出来ない筈であった。 <裁判の今後> 今、実施を目前にして、「裁判員制度」がしばしばマスコミにも登場する。それらを見るたびに、 現在どうして誤判が減らないのか、と考える。 「司法」、特に刑事事件では、まず第一線を警察が握っている。その警察は、事件で出廷の都度 「捜査に支障がある」と、情報を明らかにしない。戦前は、警察も検察の指揮を受けることになって いたというが、現在は警察独自に捜査権限をもっている戦後なのである。 最近その警察の「裏金」問題が続出した。裏金問題に関して松橋忠光氏(故人)が定年を待たず、 51歳で警察を退職して、書いた「わが罪はつねにわが前にあり」(元々は同年にキャリア警察官と なり、警察庁長官を期待されていた友人に対する書簡として書かれたという)の中で、「裏金」なる 構造的問題の改革を提言したのは、1984年のことであった。 以来近年になり、「裏金」が警察の構 造的な問題で、全国的に行われていることが明らかになってきている。 「裏金」問題は、検察内部でも起きている。刑事裁判は、検察から裁判所に提訴されるのである から、深刻に考えざるを得ない。 裁判官は、憲法上では違憲審査権を有し、何者にも制約されない身分が保障されている、という ことになってはいるが、やはり一般の役人と変わらない。裁判官の独立は揺らいでおり、憲法・法律・ 良心だけに従えばよい、という実態ではないようだ。危険である。 さて、司法で「裁判員制度」に真剣に取り組まれているのであれば、現実に裁判所の誤判も減っ ているはずだ。裁判員の中の一般人と裁判官の人数は、6体3の計9名になったが、一般人が刑 までの判決決定に参加するとのことで、いろいろと問題がある。 もともと、戦前に実施され、戦争で停止されていただけの「陪審制度」に復帰するのではなくて、 「裁判員」制度となったもので、大きな変更がある。 事実の判断は、一般民衆から出た裁判員の方が、職業裁判官より優れていると思うが、判決まで を裁判官と共にするとすれば、まず言葉を初め、庶民には馴染みのない法律用語から直さないと いけない。 また現在も行われないでいる検察手持ち証拠類を一切開示出来ない現状の改革が出 来なければ、「裁判員制度」が始まっても、我が国の裁判の好転は見込まれないのではないか。 義務教育でも、司法の教育が必要だ。 かつて「日本国憲法」施行後、戒能通孝氏が昭和26年の著書「市民の自由――基本的人権と 公共の福祉――」を書いた意図を、「従来日本の裁判官は、法律が憲法によって、無効にされる かも知れないという思想にはなれていなかった。 ある種の行政官にいたっては、いまですら法律 に関する常識を逆にして、憲法よりも法律が上、法律よりも規則が上、規則よりも訓令や通牒が上 であるかのように意識して、訓令や回答で自由に憲法が変えられるかのように思っている人がな いでもない。」と書いた。 この片よった慣例が「公共の福祉」によって説明され、合理づけられている実態を憂慮して居ら れた。 戦前の裁判所と戦後裁判所の連続性、「戦争責任」が問われなかった事実が、一時の民主化が 期待された時期を流産させて、今日の事態を産み出したのだと思う。 以上が、私たちの裁判所に抱く不安である。しかも不安は深刻である。 <備考> 下山事件:1949年、国鉄総裁下山定則の死体が常磐線の線路上で発見された事件。吉田内閣 の国鉄職員大量整理の最中で、他殺・自殺両説が対立し、世に議論を巻き起こした。 三鷹事件:1949年15日夜、中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、死傷者を出した事件。国鉄首 切りに反対する共産党員の犯行と喧伝されたが、結局非党員の単独犯と判決された。 松川事件:1949年、東北本線松川駅付近での列車転覆事件。国鉄などの人員整理に反対する 共産党員らの暴力行為として党員・労組員が逮捕されたが、廣津和郎らの救援活動が世論を喚 起。第一・二審で有罪、63年最高裁で全員無罪。 砂川事件:1955〜57年、砂川で起こった米軍立川基地の拡張に反対する闘争事件。住民らと警 官隊とが衝突、流血をみるに至った。 三池事件:1959〜60年、三井鉱山三池炭坑における人員整理反対闘争。 (以上広辞苑より) 長沼事件:1973年9月7日、札幌地裁が「自衛隊は憲法第9条が禁ずる陸海空軍に該当し違憲 である」とし、「保安林解除の目的が憲法に違反する場合、森林法第26条にいう『公益上の理由 』にあたらない」とし、国民の平和のうちに生存する権利を認める判示に世の注目を浴びた。所謂 「ナイキ事件」である。 八海事件:1951年、山口県熊毛郡麻郷村字八海で老夫婦が惨殺され、Y容疑者が逮捕。追及を 受ける中、遊び仲間4人の名前をあげ、彼らも逮捕された。Yのみ二審で無期判決で服役。他の 4人は上告、最高裁で4人は無罪となった。
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