警察見張番だより23号の2
(2007.02.11.)

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***** もくじ *****

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● 元警察官の妻として思うこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・片岡昌子

● 6戦後裁判雑感――
――特に裁判所の「戦争責任について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石川利夫 


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● 元警察官の妻として 思うこと・・・

元高知県警警部 片岡壯起の妻:片岡 昌子

<はじめに>
 平成14年12月23日は、私にとって忘れられない日です。私が主人の事件について初めて 聞かされた日だからです。

 当時、主人は高知市の自宅から約140q離れた土佐清水市の清水署に単身赴任していました。 その日、私は主人の単身赴任先の土佐清水市に、朝早くから高知を出て向かいました。久しぶり に会う主人は、初めての課長職で神経を使っているのか、疲れている様子でしたが、いつものよう にたわいのない話をするなかで、主人はこんなことを口にしたのです。

「高知署当時の元部下が友達のキャバレー経営者から接待を受け、情報漏洩をしたらしい。前に、 その部下に連れられて、その店にお酒を飲みに行ったことがある。その件で本部が25日に事情 聴取をしたいと言っているので、明日高知に帰ることになった。」「でも自分は少しもやましいことが ないので大丈夫」と、あまり気にした様子はありませんでした。

主人は仕事一筋の人間であり、お酒を飲む機会は、課の全体会の飲み会ぐらいで、個人的に同僚 の方と飲みに行くこともなく、仕事から帰ってくると、外に出かけることもありませんでしたし、たまに ある休みの日は、自分のことよりも、家庭サービスを優先してくれ、私にとって良き夫であり、子供 にとっても良き父親でした。そんな真面目な主人を20年以上一番近くで見てきている私にとって、 今回のことについては主人同様、本部から呼び出しを受けたことに、何の不安も抱きませんでした。

        

<真実を通したい、と言われて>
 25日の夜でした。本部で事情聴取を終えて帰宅した主人は、帰宅するなり血相を変えて、 本部が自分の話をまったく聞いてくれないということ、元部下の仲間だと決めつけられ収賄被疑者 にされているということ、などを怒りを露わにして私に訴えたのでした。日頃、温厚な主人がこれほど 怒りを露わにする姿を私は初めて見ました。

次に呼ばれた日、帰宅した主人から、取調べを担当した刑事さんに、疑いを否認すると「組織のた めに“ごめんなさい”でいってくれ。」と頼まれ、不本意ながらも仕方なく組織の意向に従った供述を することになったと聞かされました。しかし、主人は組織のためとはいえ不本意な供述をすることに なり、「今までの自分を全て否定されたことになる」と言って、ひどく落ち込んでいた姿を、今でもよ く憶えています。

当時、主人は、犯人扱いされたことに納得できず、私に「真実を通したい。場合によっては逮捕さ れるかも知れないが、それでもかまわないか」と訴えてきました。しかし、高校生だった子供のことを 考えると、私は「うん」とは言えず、「それだけはやめて」と言いました。その時の主人の悔しそうな顔 は今でも忘れられず、思い通りにさせてあげられなかったことに悔いが残っています。 私は、主人の悔しそうな姿を見て、私たち家族が大変な事件に巻き込まれたことを初めて感じました。

<こたぁない、こたぁない>
 年も明けた正月のことでした。当時の清水署の署長から「奥さん、大変やろうけど、大したこと ないから大丈夫やからね」と言われました。また主人も当時の高知署の課長さんや、顔見知りの監 察課の森山さんから「こたぁない。こたぁない。(大したことはない)」と言われたということを話してく れていましたので、私は、嵐は一時的なものですぐに治まると思い安心していました。 

ところが、平成15年1月15日早朝、監察課の森山さんから一本の電話で、私たち家族の運命が大 きく変わることになったのです。 電話は私が受けて主人に取りついだのですが、受話器の向こうから聞こえてくる森山さんの声は明 るく、私はその様子から署長さんたちが言うとおり、「処分は本当に大したことがないんだなぁ」と思 い、安堵したのでした。電話の用件を主人から聞くと、「印鑑を持って監察課に来てくれ」とのことで した。主人は印鑑を持って警察本部へ出かけて行きました。

<辞めてきたで>
本部から帰ってきた主人の顔は強ばっていました。主人は「辞めてきたで」と言いました。私は 主人が何を言っているのか理解できませんでした。

話を詳しく聞いてみると、昨日、本部長が検事正に呼び出され、主人を辞めさせなければ起訴する と言われていること、検察庁の処分の条件が主人を依願退職させること、本部長も主人を依願退職 させようとしており従わない場合は懲戒免職にするつもりだと聞かされ、森山さんに「依願をせえ、依 願退職をせえ」と何度も強要されたと言うのです。

 依願退職をしなければ懲戒免職だ、と言う二者択一を迫られ、主人は混乱した頭のまま依願退職 してきたのでした。 
それでも、そのときは、私はしばらくの間、何がなんだかわかりませんでした。ふと我に返った時、組 織に騙されたのだと思いました。もう後の祭りでした。 この瞬間から私たちの地獄の日々が始まりま した。

<離婚せんよね?>
 主人は退職させられた後、日に日に元気をなくして行きました。「何でこうなったのだろうか。 自分は何をしたことになっているのだろうか」。自分が置かれている状況を受け入れることができず に落ち込んでいる主人をどうしてやることもできませんでした。こんな時こそ私が主人を支えなけれ ばと思うものの、一緒に落ち込む日々が続きました。

そんな中、私は精神的ストレスによりヘルペスを発病してしまいました。 ある時、娘から「離婚せんよね?」と聞かれたことがありました。そして「今、離れて一人にしたらお父 さんは多分死んでしまうで」と言ったのです。そんな風に娘の目に映るほど、主人は生きる気力をな くしていたのです。 

          

<ショックだった警察官の奥さんたちの反応>
主人が事件に巻き込まれたことで、家族である私たちを見る世間の目も冷たく変わりました。 ある日、娘と二人でスーパーに買い物に行った時のことです。視線を感じて、ふと振り返ると近所の 警察官の奥さんが、今回の事件を知っているのか、今までなら声をかけてくれていたのにその時は 遠くから私たちを好奇の目で見ているように感じました。そして目が合うとバツが悪そうに、そそくさと その場を去っていきました。同じようなことがその後も度々ありました。

私と主人が結婚した当時の上司であった人の奥さんが、私が親しくしている友人に電話をして、「そ んな人とこれからも付き合いを続けるの?」と言っていたという話を聞いたときには、その奥さんとは、 以前は親しい付き合いをしていた仲だっただけに、ショックでした。友人は、「私たち家族は20年近 く付き合ってきて分かっているので、今まで通りお付き合いします」と言って電話を切ったそうです。 警察社会は、家族まで陰湿な虐めが及ぶと言う異常な世界でした。

<正義への疑問>
 今までの私は、正義は勝つ、真実は一つと思って生きてきました。しかし、一審で敗訴した後、 私は今まで子供には、正直に生きなさい、嘘をついたらいかん、自分がされて嫌なことは人にしたら いかん、と教えてきたことが、果たして正しかったのか?嘘をついても、ずるいことをしても自分さえ良 ければいいのだと教えた方が良かったのか?未だ私の中で結論が出ていません。

正義の味方であるべき警察官が組織や自分の身を守るためとはいえ、人の家庭のことなど何も考え ずに平気な顔をして、法廷で、軒並みつじつまの合わない嘘を証言したということ悲しいことでした。 真実を追及すべき裁判官が、不正を見て見ぬふりをしたり、無視したりする現実を知らされ、ショック を受けました。

<ひと筋の涙>
 あの日からの3年4ヶ月の中で私が一番辛かった瞬間は、主人が依願退職という名目で辞め させられた直後、二人で昼食を食べようとした時に主人の目から流れた、ひと筋の涙を見た時でした。 今回これを読むまで、あの涙を私に見られたということに、主人は気づいていないと思います。あの ひと筋の涙が、主人の思いの全てを物語っているような気がしました。

<原田さんからの電話>  
主人も私も、どうしようもなく落ち込み、気晴らしのドライブに出かけ、正直なところ生きる気力を なくして家に帰ってきた時のことでした。留守電のメモリーに見知らぬ番号が何度も入っていたので す。「誰だろう?知らない番号やね」と話していると、また同じ番号から電話がかかってきました。

電話に出た主人から弾むような声が聞こえたのは、電話を受けてしばらく経ってのことでした。それ は久しぶりに聞く主人の明るい声でした。「誰だろう?」その時は漠然とそう思いました。電話を終え た主人から電話の相手が、あの原田さんであったことを聞きました。一番嬉しかった出来事でした。 理不尽な疑いをかけられて何を言っても信じてもらえず、生きる気力をなくしていた主人にとって、 一度も会ったことも話したこともない原田さんが、主人の話を聞いてくれて、「片岡さんの言うとおり。

よくわかるよ」と優しくしてくれたことが、どんなに嬉しかったことでしょう。更に、原田さんは「一人で 悩んでちゃだめだよ。僕ができることは何でもしてあげるから」と言ってくれたそうです。この話を聞 いて私は、主人に神様が現れてくれたのだと思いました。原田さんの電話をきっかけにして、警察 ネットのふたりの弁護士さんにも力になっていただけることになりました。

すでに一審で負けていた主人を理解し助けてくれる人たちが現れ、私たちの心を強くしてくれまし た。そして、励ましてくれる友人、支えてくれている両親、子供のために、自分たちのためにも真実 を訴え続けていこうと思ったのです。

<控訴審判決が出て>
 上記の文章は控訴審の判決前に書き、すでに発表したものです(一部変更)。その時の最後 の見出しに、私は「控訴審判決への期待」と書きました。本当に期待していました。裁判は当事者に とって、金銭面、精神面で大きな負担がかかります。裁判が始まってから終わるまでの長い時間も苦 痛でした。

それらの苦痛を主人と家族は、全て受け入れて、必死に戦ってきました。「控訴審では、 先入観のない真っ白な心で、主人の事件を判断して頂き、説明責任を果たした納得のいく判決をし て頂きたい」とも書きました。しかし、11月14日の判決は「最高裁上告棄却」でした。

世間では色々な情報が飛び交っています。情報が氾濫する中、私は、新聞だけは正確な事実を書 いている社会的機関と思っていました。しかし、現実に出会った記者の中には、裁判所担当である にもかかわらず、「却下」と「棄却」の違いが解らなかった人もいました。公益性という建前の傘に隠れ て、真実を知りながら、見て見ぬふりをし、真実を記事にしないという感じは拭えません。これは弱い 者イジメではないかと私は感じました。

裁判所という所も真実を追及しようとしているとは思えませんでした。裁判の経験のない人は、裁判 官は公平に裁いてくれると、ほとんど信じています。以前の私もそうでした。しかし現実は、裁判を実 際にやったところ、一審の公判時、現職の警察官が、警察組織に不利な証言をした際、慌てて「お おごと(大変なこと)になる」と発言を制止したり、公判時、裁判官が「そんなことどうでもいいじゃない」 と半切れして言ったことが、判決理由にされていました。

二審でも事実を認定できないという証言が あるにもかかわらず、事実認定をされるなど、裁判官のご都合主義(?)により、一つの事実が、ある 時は採用、ある時は不採用になりました。裁判は誰のためにあるのか?何のためにあるのか?と考 えた時、法服を着て、正義の味方のふりをし、世間の目を眩ませて権力主義を正当化するところだ と教えられました。

    マスコミもイジメはダメだと毎日のように報道していますが、そのマスコミが真実を伝えてないことにも 失望しました。裁判所・警察・検察は、世の中のお手本にならなければならない立場の人々です。 その人達がこのようであれば「騙した者勝ち」を肯定していることになります。これでは、世の中も良 くなることはないし、イジメも無くなることはないと強く思いました。

このような出来事に巻き込まれ、今月で丸4年が経ちました。現在思うことは、マスコミ、警察、検察、 裁判所で働く人達は、規則や法律のためでなく、真面目に働いている普通の人達のために、誇りを 持って誠実に取り組んで欲しいということです。権力を持つ立場の人達は、やすきに流れることでど れだけの人が悲しみ苦しんでいるかという現実に目を向けて欲しいと強く願っています。


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● 戦後裁判雑感
――特に裁判所の「戦争責任」について――

日本国民救援会会員 石川 利夫

<はしがき>

まだ憲法は実現途上だ!  太平洋戦争後に、日本の司法は変わったはずであった。しかし、司法界には「追放令」が無かった。 戦中までの司法は天皇の名で、裁判が行われていた。当時の「大日本帝国憲法」(旧憲法)では、 第57条で「司法権ハ天皇ノ名ニ於イテ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」と規定されており、敗戦後の「日 本国憲法」(新憲法)では、国民主権の下で、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立して其の職 権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(第76条3項)と定めている。

また第99条では「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を 尊重し擁護する義務を負ふ」と定めている。

だが、この第99条による罰則付きの法律がないのをいいことにして、新憲法第9条を巡って、危険な 動きが現在おきている。新憲法が1946年11月3日に公布されて間もなく、占領国米国の政策の右旋 回が起きた。当時「全面講和」か「片面講和」かの深刻な論争が起きた記憶がある。だが、新憲法と 真っ向から矛盾する「安全保障条約」が「平和条約」と同日に結ばれた。1951年9月8日のことで、翌 年4月28日に発効した。この通称「安保条約」が軍事同盟に変えられるというので、全国的な反対運 動が、1960年春にかけて行われたのは、今では歴史となったのか。

この闘いは、安保・松川・三池の三つが結びついて進められたことは忘れられない。私たちが取り組 んでいた松川裁判闘争に関しては、「松川を守る会」、そして作家・廣津和郎先生の「松川裁判」執 筆と作家生命を賭けた運動の数年が忘れられない。その当時の運動の広がりは、今では想像も出 来ないものであった。

当時の「神奈川県 松川闘争史」(1964.11.1発行)の154頁、「松川事件救援 色紙展」の記事を 見ると、1960年6月12〜15日の間に、伊勢佐木町の有隣堂で、県内外の文化人からの出品が6百 点、中国からも掛け軸が寄せられている。6百点を超した出品者の名簿を見ると、広範な人達の善 意が結集されていることが分かる。  

例えば、伊東深水(画家)、石塚友二(俳人)、大野林火(俳人)、小津安二郎(映画監督)、鏑木清 方(画家)、小林秀雄(作家・評論家)、清水昆(漫画家)、新藤兼人(映画監督)、石原慎太郎(作 家)、高木東六(音楽家)、長洲一二(教授)、那須良輔(漫画家)、 県外でも石原裕次郎(俳優)、長門裕之(俳優)等々で、その広がりを作り上げた沢山の人が居た わけだ。

そうした広範な盛り上がりがあって初めて松川の勝利があったのだし、他の基本的人権を実現す る運動も実を結んだのである。「この歴史」に私たちは、自信を持っていい。

当時は「天皇主権」の下での「裁判」から、「国民主権の裁判」に変わり、その平和と人権を守る活 動が前進していた時期であった。無実の4人も死刑台から生還した。 現在、環境権とか諸々の権利を書き加える加憲を、改憲の理由に挙げる人も居る。だが、現憲法 に書かれた原則から、環境権初め諸権利が導き出され、獲得出来たのである。

しかし、憲法には書かれていても、戦後の裁判は必ずしも民主的に変わったわけではない。先日 の「横浜事件」第三次再審の横浜地裁では、治安維持法はまだ完全に払拭されていない、と感じ たものである。

「昭和の厳窟王」吉田石松翁への名古屋高裁再審裁判で、小林登一裁判長が判決末尾で述べ た言葉を引いて、竹澤弁護人が最終弁論を行ったが、その意向は全く無視された判決であった。 その引用された言葉を以下に揚げる。

「当裁判所は被告人否被告人というに忍びず吉田翁と呼ぼう。吾々の先輩が翁に対して冒した 過誤を只管陳謝すると共に実に半世紀の久しきに亘り克くあらゆる迫害に堪え自己の無実を叫 び続けてきたその崇高なる態度、その不撓不屈の実に驚嘆すべき類なき精神力、生命力にた いし深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈念する次第である。よって主文の 通り判決する。」

主文は「被告人は無罪」であった。
「横浜事件」の場合、竹澤弁護人の弁論にもかかわらず、事実審理はせずに「免訴」に逃げ込ん だ。私たちは、60年以上前の敗戦時に、裁判官の「戦争責任」が問われなかった歴史を、反省 しないわけにはいかない。

<私の体験から――国も間違うことがある> 私は、1950年代には、ある裁判を依頼されて傍聴したり、ある事件で証人として出廷したりした。 「下山」「三鷹」「松川」といった事件が引き続いて起きていた時代である。事件に関心を持ち、松川 被告に手紙を書いたり、二階堂武夫さん(故人)から頂いた返事を職場で回覧したりしたこともあった。

丁度「松川事件」が、二審判決後に最高裁にかかっていた頃だった。松川事件対策協議会が設 立されたのは1958年で、私はその少し前に仙台に転勤した。その職場で「松川を守る会」を作っ た。また、その後名古屋に転勤になったが、仙台高裁では、差戻審で全員無罪の判決(門田裁 判長)がくだされ、1963年9月12日には、検察の再上告を棄却し、門田判決が確定した。当時の 感激は今でも忘れられない。また、この経験が後の私の活動指針となった。敗戦と「日本国憲法」 成立にも劣らない体験であった。

        それ以来、「国」も間違うことがあると考えられるようになった。即ち、「国」が間違うことはない、とい う戦前からある考え方が問題だ、と思うようになったのである。

私たちは、戦中に「国体の本義」「臣民の道」「青少年学徒に賜りたる勅語」を、「教育勅語」「軍 人勅語」と合わせて教育された年代である。その時代は「高等文官試験」にパスして、高等官 (役人)が育てられていた。その世代である。

安倍総理の祖父・岸 信介は、そのようにして官吏になり、満州国の支配をし、その経験の下で 戦後の安保条約改訂時の総理となった。岸が一旦は、A級戦犯容疑で逮捕されながら、東京 軍事裁判で裁かれずに釈放されたうえ、総理となったのには、どのような経緯があったのだろ うか、今も疑問が残っている。

<裁判官の戦争責任>  私は40年ほど前に、山口で「仁保事件」支援に関わった。一審は、山口の小河兄弟弁護士 が、関わっていたが、二審になり在京・在近畿の弁護士で補強され、弁護団が出来た。団に加 わった青木英五郎弁護士は、八海事件の判決に抗議して、裁判官を辞任し、弁護士になった と聞いていた。

青木弁護士の書いた「裁判官の戦争責任」という著書がある。昭和38年(1963年 )の発行である。戦前の裁判、特に裁判官でさえも被告とされた治安維持法事件の裁判につき、 書いている。その「あとがき」で、「私は、裁判官の掟を破ることにした。裁判の威信とひき替えに、 治安維持法の犠牲者を、血塗られた司法の一頁を、忘却の彼方に埋もれさせることは出来ない」 と、この著書の意図を述べている。

「仁保事件」は、山口市近郊の仁保で1954年に起きたYさん 一家六人が惨殺された事件である。1972年12月14日に、広島高裁差戻審で、犯人とされたAさ んは死刑から無罪となり、確定した。これは、メーデー事件・辰野事件に続く、72年末に引き続く 勝訴であった。「松川」「八海」から「仁保」に続いた運動の勝利であった。当時はしばしば起きた 「違憲判決」も、今日では殆ど見られない。  

          ◇ 

 先年、「日独裁判官物語」という記録映画が、全国で鑑賞されたが、その映画を観て私たちが驚 いたのは、ドイツの裁判官の間では、戦争犯罪が問題化して、その頃の記念碑が建てられているこ と、裁判官も民衆と共に地域の中で暮らしていること、裁判所が民衆の出入りし易い場所に建てら れていること等だった。我が国との違いに一驚したことを覚えている。

 日本では、民衆と隔絶している。民衆との日常的な接触がない。今度の裁判員制度によって、 裁判所は変わるだろうか?「戦争責任」が不問となった後遺症が不安である。

 戦後、「松川裁判」だけではなく、一時は国民的な支持の下で、特に地裁段階で、違憲判決ま で出て話題になった時代があった。例えば、次のような裁判である。

 砂川事件 東京地裁 伊達秋雄裁判長      1959・3・30 違憲無罪判決  
 長沼事件 札幌地裁 福島重雄裁判長      1973・9・7  違憲判決 

伊達秋雄、福島重雄両裁判長のように、正面から違憲判決をする裁判官は、段々と姿を消して、 折角の違憲審査権(81条)も、いつの間にか政府側に委譲されたかの感じである。憲法99条の「尊 重・擁護」の義務があっても、本来ならば、三権分立の建前から言っても、立法権に対する司法権 のチェック機能が失われていれば、せっかくの違憲審査権も宝の持ち腐れである。

これが機能す れば、今日のような支配者の無軌道な、一般の民衆道徳にも反したことを平然とやってのけるよう なことは、出来ない筈であった。

<裁判の今後>  今、実施を目前にして、「裁判員制度」がしばしばマスコミにも登場する。それらを見るたびに、 現在どうして誤判が減らないのか、と考える。

「司法」、特に刑事事件では、まず第一線を警察が握っている。その警察は、事件で出廷の都度 「捜査に支障がある」と、情報を明らかにしない。戦前は、警察も検察の指揮を受けることになって いたというが、現在は警察独自に捜査権限をもっている戦後なのである。

最近その警察の「裏金」問題が続出した。裏金問題に関して松橋忠光氏(故人)が定年を待たず、 51歳で警察を退職して、書いた「わが罪はつねにわが前にあり」(元々は同年にキャリア警察官と なり、警察庁長官を期待されていた友人に対する書簡として書かれたという)の中で、「裏金」なる 構造的問題の改革を提言したのは、1984年のことであった。

以来近年になり、「裏金」が警察の構 造的な問題で、全国的に行われていることが明らかになってきている。  「裏金」問題は、検察内部でも起きている。刑事裁判は、検察から裁判所に提訴されるのである から、深刻に考えざるを得ない。

 裁判官は、憲法上では違憲審査権を有し、何者にも制約されない身分が保障されている、という ことになってはいるが、やはり一般の役人と変わらない。裁判官の独立は揺らいでおり、憲法・法律・ 良心だけに従えばよい、という実態ではないようだ。危険である。

 さて、司法で「裁判員制度」に真剣に取り組まれているのであれば、現実に裁判所の誤判も減っ ているはずだ。裁判員の中の一般人と裁判官の人数は、6体3の計9名になったが、一般人が刑 までの判決決定に参加するとのことで、いろいろと問題がある。

 もともと、戦前に実施され、戦争で停止されていただけの「陪審制度」に復帰するのではなくて、 「裁判員」制度となったもので、大きな変更がある。 事実の判断は、一般民衆から出た裁判員の方が、職業裁判官より優れていると思うが、判決まで を裁判官と共にするとすれば、まず言葉を初め、庶民には馴染みのない法律用語から直さないと いけない。

また現在も行われないでいる検察手持ち証拠類を一切開示出来ない現状の改革が出 来なければ、「裁判員制度」が始まっても、我が国の裁判の好転は見込まれないのではないか。 義務教育でも、司法の教育が必要だ。  かつて「日本国憲法」施行後、戒能通孝氏が昭和26年の著書「市民の自由――基本的人権と 公共の福祉――」を書いた意図を、「従来日本の裁判官は、法律が憲法によって、無効にされる かも知れないという思想にはなれていなかった。

ある種の行政官にいたっては、いまですら法律 に関する常識を逆にして、憲法よりも法律が上、法律よりも規則が上、規則よりも訓令や通牒が上 であるかのように意識して、訓令や回答で自由に憲法が変えられるかのように思っている人がな いでもない。」と書いた。  この片よった慣例が「公共の福祉」によって説明され、合理づけられている実態を憂慮して居ら れた。

 戦前の裁判所と戦後裁判所の連続性、「戦争責任」が問われなかった事実が、一時の民主化が 期待された時期を流産させて、今日の事態を産み出したのだと思う。  以上が、私たちの裁判所に抱く不安である。しかも不安は深刻である。

<備考> 下山事件:1949年、国鉄総裁下山定則の死体が常磐線の線路上で発見された事件。吉田内閣 の国鉄職員大量整理の最中で、他殺・自殺両説が対立し、世に議論を巻き起こした。

三鷹事件:1949年15日夜、中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、死傷者を出した事件。国鉄首 切りに反対する共産党員の犯行と喧伝されたが、結局非党員の単独犯と判決された。

松川事件:1949年、東北本線松川駅付近での列車転覆事件。国鉄などの人員整理に反対する 共産党員らの暴力行為として党員・労組員が逮捕されたが、廣津和郎らの救援活動が世論を喚 起。第一・二審で有罪、63年最高裁で全員無罪。

砂川事件:1955〜57年、砂川で起こった米軍立川基地の拡張に反対する闘争事件。住民らと警 官隊とが衝突、流血をみるに至った。

三池事件:1959〜60年、三井鉱山三池炭坑における人員整理反対闘争。

              (以上広辞苑より)

長沼事件:1973年9月7日、札幌地裁が「自衛隊は憲法第9条が禁ずる陸海空軍に該当し違憲 である」とし、「保安林解除の目的が憲法に違反する場合、森林法第26条にいう『公益上の理由 』にあたらない」とし、国民の平和のうちに生存する権利を認める判示に世の注目を浴びた。所謂 「ナイキ事件」である。

八海事件:1951年、山口県熊毛郡麻郷村字八海で老夫婦が惨殺され、Y容疑者が逮捕。追及を 受ける中、遊び仲間4人の名前をあげ、彼らも逮捕された。Yのみ二審で無期判決で服役。他の 4人は上告、最高裁で4人は無罪となった。


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